今回は、パナソニック、阪神高速道路でご活躍された田中 宰先生にお話を伺いました。
では、簡単に生い立ちからお聞かせいただけますか。
----田中
大阪で生まれ、大阪で育ちました。子供の頃はガキ大将ではあったんですが、いたって普通の子供でした。
少し、境遇の違う所があるとしたら、父を早くに亡くし、兄弟4人と祖父、祖母を支えた母親の後姿を見て育った事でしょう。
「田中宰」の宰という名前には何か両親からの思いがあると伺っているのですが。
----田中
ええ。この名前は自分を修め、人を治め、天下を治めるという事を願って付けられたそうです。
しかし、この名前の通り治めるとは考えていなかったのですが、気が付いてみると治めるということに半世紀を費やした
人生だったような気がしていますね。
学生時代についてお伺いしてもよろしいですか。
----田中
はい。家計のことを考え実業学校の大阪市立商業高等学校に入りましたが、母親の頑張りもあってその後、関西学院大学に進学しました。
高校での思い出としてはブラスバンド部に所属しており、また、リーダーをさせてもらっていました。
その時の部活動を通して、みんなで何かを作り上げる事の面白さや大変さや、リーダシップ、チームワークの大切さを経験することができました。
大学時代のエピソードをお話し頂いてもよろしいでしょうか。
----田中
高校時代、クラブ活動に明け暮れたということもあり、しばらくはフリーな大学生活をエンジョイしていましたが、
大学生活の中で自分にも大学にも記念になるようなものを創りたいという思いが強くなり、詩吟部を創設しました。
吟道は様々な点で私の精神を鍛えてくれたと思っています。この詩吟部の創設と活動は高校時代のブラスバンド活動とも
繋がり私の経営観の土壌になっているような気がします。
松下電器産業株式会社への入社のきっかけをお話してもらえますか。
----田中
決して豊かとはいえない我が家に、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が家に来た時、家庭の雰囲気がいっぺんに明るくなりましてね。
この家電製品を北海道から沖縄までの全ての家庭に届けられることが出来たら、きっと人々の幸せ、我が国の繁栄発展に
役立つだろうと思ったことが入社のきっかけです。
思い出に残る仕事上のエピソードを伺ってもよろしいですか。
----田中
1つ目は入社後3か月の実習が終わって、発表された配属先は本社経理本部でした。しかし、入社時の自身の思いもあり
本社人事部に再三再四営業配属をお願いに上がりその結果、一番小さな山陰の出張所の配属となったことです。
正直この会社はひとりひとりの思いを大事にしてくれる会社だ、必ず立派な営業社員となってご恩返ししようと心に誓いましたね。
2つ目は創業者松下幸之助翁に会えたことですね。入社3年目の昭和41年に幸之助創業者と出会ったのですが、
宿泊先の仲居頭さんからのご要請を受けて全都道府県に最低ひとつの工場を創ることを決断されたことです。
「各地に工場を分散すれば生産性が落ちることはいうまでもない。しかしそれよりも大事なことは地方に働く場を提供することだ」と。
松下幸之助という経営者が持つ本質を目の前で見たことです。松下幸之助の人間力、偉大さに直接ふれたことは凡人の
私を大きく変えるターニングポイントになりました。
|