株式会社 M.I.E.コーポレーションがお送りする財界の著名人を対象としたトップリーダーインタビュー

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[トップリーダーに学ぶ ]
「国内と海外を結びつければ、そこに必ずビジネスが生まれる」
という発想を強く持って、世界に友人を作ってください。
メッセージムービー
今回は、住友銀行で高度経済成長期から日本企業の国際化を支えられ、現在も豊富な人脈を活かし国際的にご活躍中の、戒田真幸さんにお話を伺いました。

得意の英語を磨き、外国為替の世界で日本企業の国際化に貢献

QUESTIONでは、簡単に生い立ちからお聞かせいただけますか。
----戒田
 生まれたのは宮崎県の日向市美々津で、小3まで育ちました。 小3になった時、神戸へ移りました。神戸には遠い親戚のおばさんが居て、独り暮らしのおばさんの面倒を見るために、母が一大決心をして神戸へ引っ越したんです。 また、神戸の下山手では、親戚のおじさんが洋食レストランを経営していました。 昔の神戸港は国際的な港で、レストランにも外国の船員さんがいっぱいやってくるわけですよ。商売柄おじさんは英語、ロシア語、フランス語に堪能で、そのおじさんに母親が頼み込んで、毎週日曜に、小5から私に英語を習わせたんです。それで英語が好きになりました。

QUESTION宮崎から神戸へ移って来られたことは、大正解でしたね。お母様のご英断ですね。
----戒田
 本当に、神戸に来たことは私にとっての大きな転機ですね。50年以上も前に、英語が大事だと言っていたおふくろは偉かったと思います。

QUESTIONその後の学校生活は、どんなふうに過ごされたんですか?
----戒田
 中学では軟式庭球三昧で、神戸市で2位になったりもしました。おかげで、弱かった身体もすっかり健康になりました。また、その頃から人前で話すことが大好きで、学校の弁論大会でよく優勝していました。神戸市の大会では2位になりましたね。
神戸中学校から名門の神戸高校(当時の神戸一中)、神戸大経済学部へと進み、ESSに入りました。ESSではいわゆる企画運営のチーフで、150人の部員に毎日の英語トレーニング教材を用意していました。ESSで友達を作り、英語力を磨いたことが、社会に出て国際的に活躍できた土台作りになりました。やっぱり、「好きこそものの上手なれ」です。ISA(Intewnational Student Association)主催のディベーティングコンテストにも、神戸大学から2回出ています。

QUESTION神戸大学から、なぜ住友銀行へ行かれたんですか?
----戒田
 その頃、本当は商社マンになろうと思っていました。住友銀行へ行ったのは、ESSの顧問だった新庄 博 先生のご縁です。当時経済学部長で、金融論の大家でもある本当に立派な先生で、新庄先生に憧れて、先生の金融論のゼミに入りました。

QUESTION尊敬する先生との出会いで、金融へ進まれたんですね。
----戒田
 そうです。日本の金融構造、銀行の問題に関心を持つようになり、そこから自然に住友銀行へ入りました。

QUESTIONそこから、入社後はどのように過ごされたんですか?
----戒田
 最初の勤務地は、住友銀行大阪駅前支店でした。国内為替1年、貸し付けの実務を1年、それから外国為替の仕事をしました。 また、新入社員の頃に、東京の「日米英語学院」に半年派遣され、デール・カーネギー・コースでスピーチの訓練を受けました。国際要員として銀行は考えてくれていたのでしょう。
それから北浜の高麗橋支店に転勤して、外国係の主任をやりました。新規担当の外回りです。当時は「支店長席付」という名刺でした。その頃、私の下にいて一緒に外回りしたのが、今の三井住友銀行で2010年まで頭取をしていた奥正之さんです。
当時、船場にインド人の経営する貿易商社がたくさんありましたが、日本の銀行はどこも手をつけていませんでした。そこで真っ先に、商工会の会議長をしていたグルラジ トレイディング コーポレイションへ。日本の家電商品を毎月5〜600万ドル輸出していたと思います。私達が取引を獲得した後はもう、芋づる式です(笑)。昭和46年のニクソンショックの時は、インド人が高麗橋にいっぱい来ましたね(笑)。
また、ニクソンショックの時、外回りをしながら聞き取り調査をして、輸出先の急激な円高で貿易会社が受ける影響などを、レポートにまとめました。支店長がそれを外国部に送ってくださって、その10日後くらいに外国部にもう転勤です(笑)。それが入社後7年目で、8年目には外国部の部長代理に昇格しました。
それから、外国為替課長に引っ張られ、外国部から本店営業部の先の外国為替課へ。 そこでは、電力やガス、繊維、家電メーカー、住友連携各社など、大阪を代表する企業を相手に、通算6年勤めました。 そのころはちょうど日本の大企業が国際化していく時代で、海外で大きな工場建設の計画などもありましたから、その出資金の獲得や、インパクトローンの貸付けや、海外送金のシェア獲得など、国内における外国為替のあらゆるノウハウを経験させてもらいました。 そうしたら、突然京都支店に呼ばれたんです。

QUESTIONどうして京都だったんでしょう??
----戒田
 支店長は、「京都は国内の業績はいいけど、外国が弱い。だから君に期待して、前人事部長の特権をフルに使って来てもらった」と。正直、外国為替課長になる気でいたので、ちょっとショックな人事ではあったんですが、2年間京都で外国係長をやりました。
実際、京都も面白かったんです。京都にはオムロン、日本電機硝子、日新電機、村田機械だとか、営業部の先に良いメーカーがいっぱいありました。 京都へ行ってすぐの頃、インパクトローンを本店と独占していた東京店に掛け合って資金調達し、京都の数々のメーカーで外国為替をたくさん集めて、一気に業績をあげました。

QUESTIONやはり、支店長は見る目がおありだったのですね。
----戒田
 そうです。ところが、胃潰瘍になって、2週間入院です。原因は、母が入院したので、100日間飼い犬の世話をしに実家へ通ったせいですけどね(笑)。
京都で2年目の頃、私をとてもかわいがってくれた支店長は、国内で支店長になれるように、貸付け係長や取引先係長と、いろんな話をくださったんですが、いろんな理由があって私は全て断りました。外国係長をさせてください、と。それが私の、国内と外国への分かれ目だったんですね。そこでまた入院して退院後、本店営業部にカムバックしました。 そのころ、住友銀行で大規模な組織改革があり、営業総本部を作ろうとしていました。その組織改革プロジェクトチームの仕事をしばらくやった後、営業総本部で次長になって、松下関係や商社を担当し、外国業務部に引き戻され、そこで次長をしました。

QUESTIONでは、国内の外国業務部も含め、先生が香港に行かれるまでの国内時代に、最も心に残る、尊敬できた上司はどんな方ですか?
----戒田
 そうですね。国内の上司で印象的な人は、外国業務部の次長の時に私が仕えた上司で、湯川さんでしょう。取締役ロンドン支店長から、大阪の外為を盛り返すために、大阪の本店支配人になって帰ってこられた方です。御巣鷹山の事故で亡くなられたのですが。
非常に豪快な方でした。私も、銀行員らしからぬ人柄にとても感化されました。大酒飲みで(笑)、お客様ととことんお付き合いする、そういう上司は初めてでしたね。それまでの上司は、部下がアレンジした接待に乗っかって動く人ばかり(笑)。湯川さんは自分で勝手にアポイントをとってお付き合いされていました。香港支店長時代も、香港の中国人の、地場のお客様と。私はそのスタイルを、それからもずっと真似しました。
一緒に仕事をするようになってすぐ、それまで毎期拡大していた三和との外為取扱高格差が、急に各所縮小していって、湯川さんは常務に昇格されました。その後住銀リースの副社長に行かれて、事故に遭われたんです。

PROFILE
1964年 神戸大学経済学部卒業。住友銀行入社
1982年 同行香港副支店長
1988年  加州住友銀行取締役ロスアンゼルス支店長
1992年  住友銀行外国業務部長
1994年  明光証券取締役大阪法人部長
その後SMBCフレンド証券を経て退職
現在、有限会社アーバンプランニング(経営・投資コンサルティング)会長や Evenstar Capital Management Limited (香港のヘッジファンド)顧問も務める。香港をはじめとした豊富な華人人脈を持つ。
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