今回のトップリーダーインタビューは、焼酎酒造メーカーとして『海童』や『天璋院篤姫』など、品質も人気も高い本格焼酎を生み出していらっしゃるM田酒造株式会社の代表取締役、M田雄一郎さんにお話をお伺い致します。本日はお忙しいところ、誠にありがとうございます。M田酒造さんの歴史などからお聞かせいただきますか?
----M田
家業としての焼酎づくりは、明治元年に始まりました。鹿児島の市来町という町は、江戸時代に薩摩藩の殿様が参勤交代する際の最初の宿場町で、小さいけれど商業資本が集まったところでした。人口7000人ほどの町ですが、今でも焼酎蔵が6件残っています。
ご幼少の頃から家業を継ぐ教育を受けたのですか?
----M田
いや、全く意識させられませんでした。自分で家業を継ごうと考えるようになったのは、大学3年生の時です。鹿児島から出たいという思いと東京への憧れから法政大学に進学したのですが、夏に帰省した時のこと、アルバイト料をくれるというので中元商戦を手伝ったんです。その時、仕事で一緒になる従業員の人たちが一様に言うのが、「帰ってきて家業をなんとかしてくれ!」ということだったんです。
皆さんが期待されていたということですね。
----M田
当時、父が社長だったんですが、実は県会議員もやっていて、ちょっと商売が低迷していたんです。父としては戦争から復員してきて、潰れかかっていた家業を何とか回復させた後に目指したのが、地方興し・国興しだったんです。生き残った責任感なんだと思います。しかし二足のわらじは簡単なことではありませんから、それで商売がちょっと傾いてきていたんです。私のことを子どもの頃から知っている従業員の方たちは、父親が自分の志を果たそうとすることは認めていて、それに異は唱えませんが、当然自分たちの生活のことがありますよね。だから跡継ぎ息子の私に責任を取れ、ということだったんですね。
それでお帰りになられたと。
----M田
父に言ったんですよ、「代表権をくれるんなら、帰ってきてもいい」と。すると、その場で「貴様、明日から代表取締役専務じゃ!」と。7月23日にアルバイト採用されたところでしたが、8/1には代表取締役専務でした(笑)。
普通ではありえない話ですね。
----M田
従業員は昔からの方ばかりで、みんな身内みたいなものですから、やはり自分が何とかしなければという考えと、「オレなら、こんな家業くらいどうにでもできる」という無謀な過信があったんですね。
「無謀な過信」、といいますと?
----M田
実家に帰って家業を頑張れば頑張るほど、業績が悪くなるんですよ。従業員のみんなと一丸になって、ほとんど休みもなく頑張っていました。でも、売上は伸びるんですが、借金は増えていくような状態で……。そんな状態だと従業員との関係も悪化するし、結局、最後は父に頼らざるを得なくなりました。
立ち直るために、何かきっかけやアドバイスがあったのですか?
----M田
約1年経った頃、父に相談すると言われたのが、「貴様なにをやっとるのか、コラ! おのれを限定せい」という言葉でした。自分としては、一地方の小さな会社という限られた中でやっているつもりでしたが、只そこにいたのは“M田雄一郎”という個人だけだったんですね。若いので体力・やる気・自信はあるが、それ以外は何もない経営者がいたというだけだったんです。
よくそれにお気付きになられましたね。
----M田
その1年間、命がけでやってきていたからだと思います。そこから、焼酎産業がどんなものなのか、どれくらいの規模があるのか、その中でM田酒造がどんな存在なのか、なぜ銀行が融資してくれないのか、どうすれば融資してくれるのか、またどうすれば事業を発展させていけるのかを必死になって勉強し、考えました。人から学ぶこと、知識として身につけなければならないこと、何でもどん欲に学びましたね。
その成果で今に至るわけですね。
----M田
大変なことはいろいろとありましたが、私の経営者としての礎はそこにあると思っています。ただ無謀な過信だけがあった若造が、真の経営者へと進んでいく一歩を踏み出せたんだと思います。
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