今回のトップリーダーインタビューは、オリックスの海外進出をはじめ、宮内会長の片腕として大変な活躍をなされ、現在は大阪シティドームの会長も務める梶原さんに、いろいろとお話をお伺いさせていただきます。
本日はお忙しいところ、本当にありがとうございます。まず簡単に生い立ちなどをお聞かせください。
----梶原
私は第二次世界大戦が終わってすぐの昭和20年9月の生まれなんです。生まれた場所は母の郷里で疎開先だった福岡なのですが、すぐに大阪に戻ってきて、それからはずっと大阪で育ちました。
大学(大阪市立大学)では何をご専攻なさったのですか?
----梶原
経済学です。自慢するわけではないですが、当時、大阪市立大学は経済学部が一番レベルが高かったんですよ。でも、私自身は学業にはあまり熱心ではなく、ほとんど音楽をしに大学に行っていたようなものです(笑)。
趣味にあるクラシック音楽ですね。
----梶原
大学の交響楽団に入ってコントラバスを弾いていました。小さい時から音楽をずっとやっていて、今も続けている趣味なんですよ。
大学卒業後、野村証券に入社され、その後にオリックスに入られた経緯をお教えください。
----梶原
野村証券に入ったのはあまり深い意味はなく、ゼミの教授に勧められたからです。でも、大きな証券会社ですから、私としては自分が理想としているような仕事ができていない気がして辞めたんです。それで知り合いから薦められてオリックスを受けたんです。
メジャーからベンチャーへ転進されたわけですね。
----梶原
そうですね、オリックスは元々ベンチャー企業ですからね。リース業という業種自体がまだ世間的に認知もされていませんでしたし、まだまだこれからの分野でした。従業員は150人くらいだったと思います。私も国内の拠点の立ち上げから、海外での現地法人設立など、新たな場を作ることもいろいろとやってきました。
台湾、香港、中国と赴任されていますね。それは語学力を期待されてですか?
----梶原
いやいや、英語は多少できましたが、中国語は1〜10まで言えない程度でしたよ。台湾に赴任した時は、海外も駐在したこともなかったし、全くひとりで行きましたから、最初はどうなることかと思っていました。
どこが仕事がしやすかったですか?
----梶原
それは香港ですね。完全に英国圏で、インターナショナルなルールに則って仕事ができるところでした。逆に難しいかったのは中国です。やはり特殊な体制の国で、仕事の流れがちょっと普通の感覚とは違いました。台湾は文化的に日本人の考え方とすごく近いので、人付き合いなどがしやすく、暮らしやすいところでした。
海外での、特にアジア圏でのビジネスを成功に導く秘訣というのは?
----梶原
日本を向いて仕事をしないことです。戦うべき相手は日本の本社であり、現地でしっかり考えて仕事をすることが大切だと思います。それと日本人は、我々と見た目が明らかに違う人たちには客観的に接して考えることができるのですが、似ている人たち(アジアの人たち)はつい自分たちと同じだと考えてしまいがちです。でも生まれ育った環境が違えば、やはりいろいろな面で違いがある。ですから、交渉事にしても日本のルールではうまくいかないことがあります。そういうことにきちんと気を配ってビジネスをできるように意識しておくことを忘れないで欲しいですね。
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