今回のトップリーダーインタビューは、長年赤福の発展に尽力され、また、地域再生の事例として有名な伊勢神宮参道の「おかげ横丁」の開発にも力を注がれ、現在は昨年の事件後の赤福の再建にも骨を砕いていらっしゃる株式会社 濱田総業の執行役員の平居さんにお話をお伺い致します。本日はお忙しいところ、本当にありがとうございます。まず簡単に生い立ちなどをお聞かせください。
----平居
私は太平洋戦争の始まった昭和16年に三重県の松阪で生まれました。実家は禅寺でしたので、高校卒後は京都にある花園大学の仏教学部へ行きました。
経営や経済を学ばれたわけではないのでね。
----平居
当時は就職などは非常に厳しい時代でしたからね。でも私は次男ですので、実家を継ぐ気はなく、大学でも教員養成課程を修めて、三重県の教員試験に合格していました。
赤福さんと縁は?
----平居
大学を卒業する直前になって、身内の紹介で濱田オーナー(先代)と知り合う機会があり、そこで引き込まれて・・・。
濱田さんに気に入られたんですね。
----平居
いや、「一緒にやらんかい!」という感じでしたよ(笑)。
当時の赤福さんの規模は?
----平居
赤福は創業は260年で歴史ある存在でしたが、私が入社した昭和39年頃はまだ本当に小さな会社でした。社員が約100名、売上が約4億円、販路は三重県のみ。昭和40年に名古屋と大阪のデパートに出店したところでした。
まさに平居さんが入られて大きくなってきたんですね。
----平居
そんな偉そうなことは言えませんよ。ただ、今までに経験したことのない様々な仕事を赤福に入ってからさせてもらい、そのひとつひとつをがむしゃらにやって進んできました。そんな私の企業人としてキャリアは、赤福という企業が大きくなる、成長する過程と共にあったという気はします。昭和45年に名古屋営業所の副所長、その後、大阪営業所の所長になりました。赤福が大きくなっていく中で、大阪営業所の所長時代、話はいろいろとあったのですが京都には店を出しませんでした。しっかり足場を固めて企業規模を充実させてから、拡大することが大事だと思ってたのです。ですが、私が大阪から離れた後、3年後に京都に出店しました。身の丈知らずに伸ばしていく拡大路線を取ったんです。そんなことが、昨年世間をお騒がせしたことの原因のひとつなのかもしれません。
嘘をつき続けていると廃業に追い込まれる例もあるのですが……。しかし赤福さんはきちんとその原因を追及し、今は再生への道を歩まれています。
----平居
はい。手作りの品質を大事にするという原点に立ち戻って頑張っていますよ。
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