----本日はお忙しい中、どうもありがとうございます。まずは、遠藤さんが福祉の仕事を目指されたきっかけをお聞きしたいのですが?
父が2歳の時に亡くなり、母ひとりで4人の子供を育てるという家庭に育ちました。直接的な理由ではないですけど、中学生の頃に母の後ろ姿を見て、介護や福祉のことを考えていたことを記憶しています。高校生の時にはキャンプ場のカウンセラーをボランティアでしていて、その後、大学生の時に自閉症児の家庭教師をしたことをきっかけに、自宅を開放して障害のある子供たちの面倒を見るようになったんです。
----それがそのまま今の事業に繋がっているのですか?
いえ、そんなことはないです。大学卒業後は、自衛隊に入隊しました。3ヶ月で辞めましたけどね。それから、北海道で酪農したり、与論島で民宿を手伝ったりと、放浪の旅をして・・・。でも、いずれは社会福祉の道に進みたいとは考えていました。大阪に戻ってからは、中馬こうき氏の選挙を手伝ったりしていました。その後、縁あって、我が国最大の福祉事業集団である浜松の聖隷福祉事業団の門を叩くことになったんです。
----そこで本格的に福祉事業に携わられたのですね。
私にとって一番大きかったのは、長谷川保という人物との出会い、心の師と仰げる人物との出会いでした。長谷川保は、日本の社会福祉制度を作ってきたと言える人。その話をすると長くなってしまいますので、詳しくは拙著(※注1)を始め、本もたくさん出ていますのでそちらをご覧頂くとして、分かりやすいところでは、社会党の衆議院議員として、「生活保護法」を作った人です。聖隷福祉事業団は、7万坪もの広大な敷地に、病院・教育施設・福祉施設・有料老人ホームなどが集まっていて、長谷川保がほとんど無一文から作り上げたものです。
----具体的には、長谷川さんからどのようなことを学ばれたのですか?
秘書として一緒にいながら、本当にあらゆることを学んだと思います。キリスト教徒として、社会事業家として、政治家として、教育者として卓越していただけでなく、経営者としても一流だったと思います。その出会いがなければ、多分今の私はないでしょう。それくらい私の人生にとっては大きな出会いでした。
※注1 遠藤正一著、『破天荒 ー福祉の巨人、我が心の師ー』、交友社
----“心の師”と仰ぐ方の下を離れて、浜松から大阪にお戻りになられ、起業なされたのには何か理由があるのですか?
師の後を追うことが目標ではなく、師が求めているところを求めることが目標だと思ったからです。つまり、聖隷福祉事業団で頑張っていてももちろん人の役には立てるのですが、自分で独立して新たなフィールドを作ればもっと大きく社会に貢献できるだろうと考えたからです。でも、何のアテがあった訳でもないですから、本当に大変でしたね。ゼロから、いやマイナスからのスタートという感じでしたから・・・。
----1986年に在宅ケアを始められたのは、かなり先見の明だと思います。
いや、早すぎたんじゃないでしょうかね。会社という形で福祉サービスの新分野を開拓していくということには多くの誤解や偏見がありました。だから、最初のうちは何でもしましたよ。ガードマンしたり、露天商したり、たこ焼き売ったり・・・(笑) そんな中で頑張っているうちに徐々に行政からの委託が受けられるようになり、またいろいろないい出会いがあって、1990年に第1号の都市型有料老人ホームをオープンさせることができました。そこは「自由に、気楽に、街の中で、安心・安全に」という、私が理想に思う老人ホームを実現したもの。要は、自分が年を取った時に住みたいところを作ったんですよ。
----パンフレットを拝見して、御社の老人ホームって、素敵だなと感じました。
雰囲気はもちろん、我々の施設は食事もおいしいですよ。一度見学に来てもらえたら、きっと老人ホームに対する考え方が変わると思います。私の考えは、最後までいい環境で過ごして欲しいということ。死ぬ時に「今まで生きてきて良かった」と思えるか、どうかです。今後もまだまだ老人ホームのイメージを変えていきたいと考えていますよ。
----是非、期待しています。今後はどのようなアイデアをお持ちなのですか?
私たちは福祉の分野のプロフェッショナルです。その分野では負けない自信はあります。ビジネスは、お金ができると自分の知らないことに手を出しそうになりますが、これはマズい。実は私も1回、衣料品販売を始めて失敗していましてね(笑)。だからこれからも、福祉、在宅介護の面で新たなサービスや理想的なサービスが展開できるよう、取り組んでいきます。
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